朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

鎖国する?

「打つ手、ないみたいやな」

「何の話?」

「いやあ、日韓問題。昨日もテレビ観てたけど、プロの人が三人出てはってあーでもないこーでもない言うてはったけど、話が一向に弾まん。どや? 言うたら、静観する以外ない、ちゅうのがお湯のなかで屁をこいたみたいな結論やったんや」

「プロの人でも手に負えんのやったら、おとーさんがなんぼ考えたところで、ブクブクとも言わんな」

「そうや。湯のなかでこいても、なーんも上がって来ん」

「それやったらこの話、おしまいにしよか」

「ひとつだけ言いたいことあるんやけど、聴く?」

「聴く? 聴くやないやろ。聴いてちょうだい、やろ」

「聴いてちょうだい」

「聴いたろ」

「簡単や。前からちょくちょく言うてるんやけど、鎖国する以外手はないんちゃうか、思てるんやけどな」

鎖国すんの?」

「そう。もうこないに糸がもつれてしもたら、『ゴメン! 悪ィ! しばらくどことも付き合いやめる。あれこれ、これがええかいなー、あれやったらどーやろ考えて言うても、なに言うても揉めるもとになる気がするんで、しばらくソーッとしといて、また波風収まってどや? いうことになったらそん時ゃそん時、考えるとして。そうなるまで、ソーッとしといて。頼むわ。いやいや、ムンちゃんは好きなことなんでも言うて、なんぼ言うてもろてけっこう。もうこっちからはなーんも言わん』言うて、カメが首や手足引っ込めたみたいに閉じ籠もってしまう、いうんはどうやろ?」

「それ、韓国だけの話?」

「いやあ、ややこしいとこはみんなや」

「そしたら、アメリカも?」

「そう、アメリカも」

「それで納得すんの? 日本が」

「せんやろ」

「おとーさんは?」

「わからん」

声に出して読む『ファーブル昆虫記』(幼年時代の思い出)ー3奥本大三郎訳

 この繊細な荷物は、私がちょっとつまずいても割れてしまうであろう。だから私は、それ以上丘を登るのをあきらめた。お陽様が昇ってくる丘の頂きの、木々が立ち並んでいるところまで行く機会はそのうちまたあるだろう。私は斜面を降りていった。

 ところが丘のふもとのあたりで私は、助祭様に出会った。聖務日課書を読みながら散歩しておられるところであった。助祭様は、まるで私が聖遺物でも捧持しているかのように、慎重にそろりそろりと歩いているのを見たのだ。そして私が背中に手をまわしているのを見て、何か隠して」いるな、と見てとったのである。

「おまえ、何を持っているんだね」

 と助祭様は私に尋ねられた。

 私はすっかりとまどってしまって手を開き、苔の蒲団の上の青い卵を見せた。

「ああ! サクシコルの卵だな」

 と助祭様は言われた。

「いったいどこでこれを採ってきたんだね」

「上のほうの、石の下です」

 

 次々に質問されて私は小さな罪を告白した。ーー偶然巣が見つかったんです。初めから探してたわけじゃありません。卵は六つありました。そのうちのひとつを採りました。これです。僕、ほかの卵が孵るのを待ってるんです。雛にしっかりした羽根が生えそろったころ、またあの巣のところに行って全部取ってやろうと思ってます・・・。

「おまえ、ね」と助祭様は言われた。

「そんなことしちゃいかんよ、小鳥の母親から雛を盗んだりしてはいかん。罪もないあの家族を大切にしてやるんだ。小鳥たちが大きくなったら、巣立ちさせてやりなさい。小鳥は野の喜びなんだ。土の中の害虫を退治してくれるんだよ。いい子だから、小鳥の巣には二度と手を出すんじゃないよ」

 もうそんなことしません、と私は約束し、助祭様は散歩を続けられた。まだ幼くてよく耕されていない知性の畑に、私はふたつの善き種子を蒔いてもらって家に帰ったのだった。

 権威ある言葉が私に、小鳥の巣を壊すのはいけないことなのだと教えてくれたのである。どんな具合に小鳥が、畑の収穫に大きな害を与える虫を退治して人間の助けになるのかは、よくわからなかったけれど、親鳥を悲しませるのは悪い行ないなんだな、と心の奥底で感じることはできた。

 

「サクシコル」と助祭様は私の発見した卵を見て言った。「へえ、そうなんだ!」と私は思った。僕たちと同じように、動物たちにも名前があるんだ。誰が名づけたんだろう。

 野原や森の、僕の知ってる鳥や獣はなんという名前なんだろう。サクシコルという言葉にはどんな意味があるんだろう。

 

 何年かして私はラテン語の勉強をし、サクシコルというフランス語はラテン語に由来するもので、もともと「岩に住む者」という意味があることがわかった。

 たしはにあの鳥は、私がうっとりと卵に見惚れているあいだ、尖った岩の先端から先端へと飛びまわっていたし、その住まいというか巣では、大きな石の縁の部分が屋根の役目を果たしていた。その後、私の学力がもっと進んでいろいろと本を拾い読みしているうちに、岩だらけの斜面を好んで住むこの小鳥は、フランス語ではモットウーとも呼ばれるということがわかった。なぜかというと、これは畑を耕す季節になるとモットつまり、「土くれ」から「土くれ」へと飛び移り、掘り返されてミミズやコガネムシの幼虫などのいっぱい出てくる畝で餌を探してまわるからである。

 最後に私は、この鳥の「腰白」(キュ=ブラン)というブロヴァンス地方での名前を知った。これもまた実に言い得て妙、というべき表現で、この鳥が畝のあいだをぱーっ、ぱーっと短く飛翔する拍子に、腰の付け根にある白斑がまるで畑の中をひらひらと舞う白い蝶を連想させるのである。

 こんなふうにしてさまざまな言葉が生まれるのだ。こんな名前のおかげで、のちに私は野外の舞台に登場するたくさんの役者たち、道端でわれわれに微笑みかけるたくさんの花々に、その正統な名前で挨拶できるようになったのだ。

 助祭様がなんの気なしに口にした言葉は、私にひとつの世界を、草や動物が、その正式な名、つまり学名で呼ばれる世界を教えてくれたのである。

 動植物の名称という膨大な体系を読み解く仕事はいつかまたやることにして、今日のところはサクシコルつまりハシグロヒタキの名を思い出すにとどめておこう。(つづく)

声に出して読む『ファーブル昆虫記』(幼年時代の思い出)ー2 奥本大三郎訳

 あの日、私はおやつにリンゴをひとつもらって豊かな気分だったし、お手伝いを言いつけられてもいなかったので、手近な丘の頂まで行ってみようと思い立った。それまで、その丘は私にとって世界の涯であったのだ。尾根には木々が立ち並んでおり、風になびいて、今にも自分の根を引き抜いて逃げ出しそうに、腰が折れ曲がったまま揺れていた。

 私の家の小さな窓から、雷雨の日など、これらの木々がお辞儀をしているところを何度見たことであろう。また何度、彼らが、山の斜面に沿って北風が吹き上げては吹き降ろす雪煙のなかで、死にもの狂いにのたうっているのを眺めたことであろう。あそこで、あの悲しそうな木々は何をしているのだろう。

 今日は青い空を背景に静かに立っているかと思うと、明日には雲が通り過ぎるたびに揺れ動いているあのしなやかな幹が、私は気になってしかたがなかった。

 木々が静まりかえっていると私は嬉しく、木々がおびえていると私は悲しかった。彼らは私の友達だったのだ。いつまでも私はこれらの木々を眺めていた。朝になると、まばらに立ち並ぶ木々のカーテンの向こうから陽が出て、光り輝きながら昇っていくのだった。太陽はどこから来るのだろう。あそこまで登ってみよう。そうしたら、きっとそれがわかるにちがいない。

 

 私は斜面を登っていった。そこは羊が草を食い尽くした痩せて野原であった。藪なんかもないから、服に鉤裂きをこしらえて、家に帰ってから叱られることもないだろう。よじ登るのに苦労するような岩もない。ただあちらにもこちらにも平たい大きな石が散らばっているだけだ。何もない草原を真っすぐに進んでいけばそれでいいのだ。だけどこの原っぱは、まるで家の屋根みたいに傾いている。やたら長い、長い道で、それなのに私の脚はとても短いのだ。

 ときどき私は上のほうを眺めてみるのだった。でも自分の友達の、あの丘の頂の木々たちはちっとも近くなったようには見えない。さあ、頑張るんだ! 登りつづけるんだ。

 

 おや、なんだ? 足もとに何かあるな。きれいな一羽の鳥が、大きな平たい石の庇の下の隠れ家から飛んでいったぞ。しめた! 羽毛と細い藁とでできた小鳥の巣じゃないか。

 それは私が初めて見つけた鳥の巣、のちに鳥たちが私にもたらしてくれて数々の喜びの最初のものであった。

 そして、その巣の中には六個の卵が美しく並んでいた。卵は、まるで青空の染料に浸したみたいな、素晴らしい空色をしていた。あまりの嬉しさに、わたしは草っ原に寝そべって、じっと眺めていたのだった。

 そのあいだ母親の鳥はジュクジュクチー、ジュクジュクチーと小さく喉を鳴らしながら心配そうに、邪魔者の私からあまり遠くない石から石へと飛び移っていった。私はまだ小さくて、慈悲心なんかなかった。野蛮で、母親鳥の悲嘆がわからなかったのである。

 いいことを私は思いついた。小さな猛獣の思いつきだーー二週間もしないうちにまたここに来て、、雛たちが巣立つまえに捕まえてやろう。それまではこのきれいな青い卵をひとつ、たったひとつだけ、発見の栄誉の証として取っておこうーー。

 壊してはいけないので、私は掌の窪みに苔を少しばかり敷いてこの脆い卵をその上にそっと置いた。初めて小鳥の巣を見つけた子供のころの喜びを知らぬ者は私に石を投げるがよい。(つづく)

スマイル・シンデレラ

「お母さんがえらいんやな」

「何の話?」

「ゴルフで優勝したあの女の子のおかあさんの話」

「『いつも笑顔で』いうて、送り出してたみたいやね」

「そうらしいなあ。えらいなあ。こんな簡単なこと、忘れてたいうんか、気づかなんだいうんか、教えられたな。ちょっと顔の筋肉ゆるめて、にっこりするんは世界共通、スマイル・シンデレラになれるいうこっちゃからな」

「テレビ観てても、厳しいて怖いような顔ばっかりやからね、世の中。余計に目立つんやろね」

「そやろなあ。そういうことかな。情けない話やけどな」

「おとーさんも難しい顔ばっかりしてたらあかんで。おとーさんがどないな顔してたかて、へのつっぱりにもならへん。いつもにこにこ、笑う門には福がくる、で行こ」

「そやな。宜しくお願いします」

 そこで一句   「風鈴の音色スマイル・シンデレラ」

声に出して読む『ファーブル昆虫記』(幼年時代の思い出)ー1 奥本大三郎訳

 虫は子供の喜びである。ぽつぽつ穴を開けた箱の中に、セイヨウサンザシの花の寝床を敷きつめ、コフキコガネハナムグリを飼って楽しむ。

 小鳥はまた、抗いがたい誘惑である。その巣や、卵や、黄色い嘴を開いて餌をねだる雛たち。

 そんな虫や小鳥と同じくらい、きのこはその、いかにも多様な彩りで、幼いころから私の心をとらえて放さなかった。

 初めてズボン吊りをしたころ、そして何が書いてあるのやらまったくわからなかった、文字というものの謎がようやく解けてきたころ、幼くて無邪気な私の、初めて小鳥の巣を見つけたときの、そして初めてきのこを採ったときの、あの、嬉しさに頭がぼうっとするような気持ちを今でも思い出す。

 こうした重大な、いくつかの出来事について述べることにしよう。歳をとると、昔のことを思い出すのを好むようになるものである。 

 好奇心が芽生えて、われわれをぼんやりした無意識の状態から救い出してくれる幸せな時代よ。おまえのはるかな遠い記憶は、私の一生でもっとも美しかった日々のことをふたたびよみがえらせてくれる。

 日向でうつらうつらしてしていたヨーロッパヤマウズラの雛たちは、通りすがりの人の気配に驚いて、あわてて散り散りに逃げていく。美しい綿毛の毬のような雛たちは、てんでに茂みの中に隠れるのだが、静けさがもどり、母親がひと声鳴くと、みんなすぐ、母鳥の翼の下にもどってくる。

 そんなふうに、何かのはずみに、私の幼年時代の思い出も、私のもとに呼び返されてくるのだ。それらの思い出はいわば、人生という茨によって散々羽根を毟られた、また別の雛鳥たちなのである。そうした思い出のいくつかは、茨の中から逃げ出してきたときに頭が傷だらけになり、足もとがふらついている。そしてまた別のいくつかは、茨の藪の片隅で押し殺されてしまっているが、また別のものたちは、本来の新鮮さを完全に保っているのだ。

 ところで、時の爪を逃れて生き残っている記憶のうち、もっとも生き生きしているのは最初のころに生まれたものである。柔らかい蠟のようだった幼時の記憶は不変のブロンズ像と化しているのだ。(つづく)                

韓国にお住まいの普通のおじさんおばさん教えてください

「いつまで続くんやろ?」

「続くて、なにが?」

「日本と韓国、なんやかんやと、ややこしいやろ」

「わかるけど、考えたところでどーもならんやろ?」

「まあなあ。おれらジャコがない頭であれこれ考えても、どーもならんのはわかってるけど、テレビでこれだけギャンギャン言われたら、しらん間に考えてるんや。考えたところでどうどうめぐりやけどな」

「おとーさんはテレビ人間やからな。どうでもええねんわたしは。韓ドラさえ観れたらなーんも影響ナシ」

「ええなあママンは。おれあかんわ。テレビ観てて、どうしても気になることがあんねや」

「なに?」

「韓国の普通のおじさんおばさんに訊きたいんやけど、韓国人で、日本の大学で教授なんかやってるひとやなんか何人かがテレビに出て、けっこう自由に言いたいこと言うてはるやろ」

「キム・キョンジュいう人とかやろ」

「そうそう、キムさんいうんやな。ようテレビ出てはるな」

「その人がどないしたん」

「いやあ、おれは日本人やからかもしらんけど、あの人がいろいろ言うてはることで『なるほど』思うこともないではないけど、どっちかいうと『それちょっとちゃうで』思うほうが多いな。まあそれはそれでええんやけど、そこでやけど、韓国の普通のおじさんおばさんに訊きたい、ちゅう話やけどな」

「なにが訊きたいの?」

「たとえばやなあ、韓国のテレビにやな、日本人のだれかが出て、キムさんとおんなじように自由に日本を擁護するようなことを普通にべらべらしゃべらせてくれるテレビ局があるかどうか、ということや。韓国に行ったこともないし、どうなんやろ? 思て頭んなかに残ってんねん」

「どうなんやろねえ。わたしもわからんわ」

「もひとつ訊きたいことあんねん」

「まだあんの? なに?」

「今回のホワイト国から外すとかで、大統領がもうヒステリーみたいになって日本にあれこれ言うてはるやろ。あれ、口に出して言わないかんのかなあ? 北朝鮮と組んだら日本なんかすぐに追いつき追い越すみたいなこと言うてはるけど、あんなこといちいち言わんと黙ってやったらどやねん思うけど。『男は黙ってサッポロビール』で育ってるからな。なんか泣き言いうんか『憶えてやがれ!』の捨て台詞みたいに聞こえて仕方がないんやけどな。韓国の人達は大統領の言うてはることを『そやそや』思うて聞いてはるんやろか?」

「どうなんやろ? けど、それも仕方ないんとちゃう。韓ドラ観てるとなんかそんな気がする。おとーさんも韓ドラ観たらええねん。いろいろと勉強になるで」

東野英治郎の水戸黄門シリーズを観る-3

「昨日が大友柳太朗、おとといが志村の喬っちゃんやろ。面白かったなあ」

「大友柳太朗いうたら、スターやったもんね」

「ほんまやで。たいがい錦之助とか、千恵蔵右太右衛門なんかの次、準主役やったんやけど『鳳城の花嫁』では主役やったからな」

「おとーさん観たの?」

「観た」

「どこで?」

「いなかの映画館で」

「あったん?」

「あったんて、町にはふたつあったんや。そこでな。初のシネマスコープ総天然色いうんが売りやったんや」

「いまはもう、映画もあかんようになってしもうたな」

「あのころは全盛でな、2本立てが普通、2番館になると3本立てが当たり前やったからな。映画は娯楽の王様で、それだけ観る人が多かったいうことやな」

「子供のころはおとうちゃん、おかあちゃん、おにいちゃんいもうと、家族みんなで月に1回か2回は行ってたけど、いまは年に1回行くか行かんやもんな」

「そうやなあ。テレビで事足りるからな。ちょっと待ってたら観れるからな、テレビで」

「あのころとは様変わりやね」

「映画では出る幕ないもんな、大友柳太朗も。テレビに出んとしゃーない。志村喬もそうやけど。どんな気持ちやろ?」

「なにが?」

東野英治郎いうたら劇団の人やから、当時映画いうたら出稼ぎの場で、そこで貰った出演料を劇団のタシにしてたんやな」

「劇団いうたらお芝居やろ。おとーさんと観に行ったん憶えてるわ。仲代達矢の『どん底』」

「そうそう、もう昔々のお話やな。劇団経営はえらい厳しかったみたいやで。観に来るお客さんの数は限られてるし、というてそないにキップ高うに売るわけにもいかんから名の売れてる人はそのぶん映画に出て帳尻合わしてたいうことやろな」

「ふーん、大変やったんやな」

滝沢修いう人がいてはってな、もう亡くならはって随分になるけど、演劇の世界ではカリスマや。その人でも出稼ぎで日活の裕次郎の映画に出てはったからな。そのころはそんな人とは知らんから、あの人だれや、みたいなもんやったけどな」

「流れやからなあ、世の中の。しゃーないわな、しらんけど」

「テレビの時代になって映画はだんだん左に傾く、映画やったら月形龍之介がやってた水戸黄門をテレビでは東野英治郎がやることになる。同じように映画がありゃ大友柳太朗も志村喬も映画の世界で喰っていけるやろけど、しゃあない、テレビにも出らんと。あのころやったら大友柳太朗最初に名前が出るんやけど、いまは東野英治郎やからな」

「しゃーないやろ。流れやから」

「そやな。流れや。けど大友柳太朗は親の仇を追って日本国中25年、いまだ巡り会えず。ところがストーリーでは、ここがおもろいとこやけど、人違いで黄門さんが仇ということになる。仇を追って国元を出たときに用意した路銀もそこをつき、いまはあれこれ難儀してる人を助けてはいくらかのカネを恵んでもらうという情けない有様。もう仇を捜して歩き回るのも限界。うすうす人違いとはわかっていても黄門さんを仇とみなして討たしてくれと無理難題。ええよええよ、大友柳太朗。けど役とはいえ、昔の栄光いまいずこ。東野英治郎・黄門さんに土下座してあれこれ説諭される心境は、どないもんやろ?」

「またおとーさんのブツブツが始まったな。ちょっと、イズミヤ行ってくるわ」