朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

蜘蛛の糸

 ベランダ側の窓越しに山の連なりが見えます。六甲連山の一部分です。霞んで見えるのは雪か雨か、気象予報通り今朝は冷え込んでいます。霞が霽れて、山はうっすらと雪化粧です。山の中腹まで浸食する住宅群は朝日を受けて、白く反射しています。

 随分以前のことですが、カーラジオで『蜘蛛の糸』を聴きました。聴いている中で、ひとつの疑問が私の頭の中に芽生えました。

 それはなぜ、お釈迦様が犍陀多を助けようとしたのか、という疑問です。物語では、地獄に墜ちた悪人の犍陀多が生前、踏み殺そうとした一匹の蜘蛛を思いとどまって助けた、というのがその理由です。お釈迦様はこの行いを一つの善行と思い、地獄の底へ蜘蛛の糸を垂らしてこの悪人を地獄から救ってやろうという、慈悲の思いが蜘蛛の糸というわけです。

 お釈迦様はなぜ犍陀多を助けようと思われたのか? 物語は上記の通りですが、私の疑問は「お釈迦様ともあろうお方が、犍陀多の行いの結末を予見できなかったのか」という思いです。たしかに、予見できたはずだと思えば、この物語は成り立ちません。

 ここまで書いて、また私の頭の中に新しい疑問が浮かんできました。お釈迦様はきっと、予見できたはずです。自分の行為が無駄に終わると分かった上での「蜘蛛の糸」だったのです。

 ではなぜお釈迦様が、自らの非力を認めた上で、地獄で苦しむ犍陀多の頭上へ蜘蛛の「糸」を垂らされたのか?

 考えてみたいと思います。