声に出して読む『ファーブル昆虫記』(幼年時代の思い出)ー1 奥本大三郎訳
虫は子供の喜びである。ぽつぽつ穴を開けた箱の中に、セイヨウサンザシの花の寝床を敷きつめ、コフキコガネやハナムグリを飼って楽しむ。
小鳥はまた、抗いがたい誘惑である。その巣や、卵や、黄色い嘴を開いて餌をねだる雛たち。
そんな虫や小鳥と同じくらい、きのこはその、いかにも多様な彩りで、幼いころから私の心をとらえて放さなかった。
初めてズボン吊りをしたころ、そして何が書いてあるのやらまったくわからなかった、文字というものの謎がようやく解けてきたころ、幼くて無邪気な私の、初めて小鳥の巣を見つけたときの、そして初めてきのこを採ったときの、あの、嬉しさに頭がぼうっとするような気持ちを今でも思い出す。
こうした重大な、いくつかの出来事について述べることにしよう。歳をとると、昔のことを思い出すのを好むようになるものである。
好奇心が芽生えて、われわれをぼんやりした無意識の状態から救い出してくれる幸せな時代よ。おまえのはるかな遠い記憶は、私の一生でもっとも美しかった日々のことをふたたびよみがえらせてくれる。
日向でうつらうつらしてしていたヨーロッパヤマウズラの雛たちは、通りすがりの人の気配に驚いて、あわてて散り散りに逃げていく。美しい綿毛の毬のような雛たちは、てんでに茂みの中に隠れるのだが、静けさがもどり、母親がひと声鳴くと、みんなすぐ、母鳥の翼の下にもどってくる。
そんなふうに、何かのはずみに、私の幼年時代の思い出も、私のもとに呼び返されてくるのだ。それらの思い出はいわば、人生という茨によって散々羽根を毟られた、また別の雛鳥たちなのである。そうした思い出のいくつかは、茨の中から逃げ出してきたときに頭が傷だらけになり、足もとがふらついている。そしてまた別のいくつかは、茨の藪の片隅で押し殺されてしまっているが、また別のものたちは、本来の新鮮さを完全に保っているのだ。
ところで、時の爪を逃れて生き残っている記憶のうち、もっとも生き生きしているのは最初のころに生まれたものである。柔らかい蠟のようだった幼時の記憶は不変のブロンズ像と化しているのだ。(つづく)