朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

声に出して読む『ファーブル昆虫記』(幼年時代の思い出)ー4奥本大三郎訳

 私の村の西側は、プラムやリンゴの実る小さな庭が急斜面をなして階段状に続いている。それぞれの段々を支える丈の低い壁は、土の重みによって、人でいえば、肥って腹が出たように膨らみ、表面にむさ苦しく苔や地衣類を生やして黒ずんでいる。

 この斜面の下に小さなせせらぎがあるのだ。それはどこまでたどっていっても、ぴょんとひと息に跳び越せるような小さな流れである。浅く広くなっている箇所では、水から半分頭を出した岩が飛び石の役目を果たしている。

 子供に姿が見えないとき、母親たちがはっとして、もしかしてあそこにはまったのかもしれない、と恐怖心にかられるような深い淵なんかどこにもない。水の深さはどこまでも膝までしかなく、それを超えることはない。

 私の親しい流れよ。あんなにも冷たく、澄んだ、静かなせせらぎよ。あれから私は滔々たる大河を見た。はてしない大海も見た。しかし私の思い出のなかではどれひとつとして、おまえというささやかな流れに優るものはない。おまえには、私の心に最初に刻印を残した聖なる詩の貴さがあるのだ。

 

 ひとりの粉屋が、野原をあんなに楽しげに流れていくこの小川を働かせてやろうと思いついた。丘の中腹に傾斜を利用して水路を造り、水の一部を引いてきて大きな貯水池に流れ込むようにしたのだ。これが水車を回す動力源になった。人がよく往き来する小径の道端にあるこの貯水池は壁にせき止められて行き止まりになっている。

 ある日、友達に肩車をしてもらって、私はシダに覆われたこの陰気くさい壁の向こう側を覗いてみた。緑色のぬらぬらする髪の毛のような藻がいっぱい生えている底なしの貯水池が見えた。

 このぬるっとした藻の隙間を、黄色と黒の、ずんぐりしたトカゲのような生き物がゆらーりと泳いでいた。今の私ならこれをサラマンドルと呼ぶところだ。でも、そのころには、その生き物は夜ふけに聞かせてもらう恐ろしい御伽噺に出てくる、毒蛇だとかドラゴンだとかの子供のように思われた。「うわーっ、恐っとろしい! もういいよ、早く降りよう」

 

 貯水池の下方は小川になっている。両方の岸辺には、ハンノキとトネリコが身をかがめ合い、枝先をからませて緑のアーチを形づくっている。それらの木々の根元には、曲がりくねった太い根が家の玄関のようになり、その奥には水中の生き物の隠れ家がいくつもぽっかりと口を開いており、それぞれ暗い廊下のようになって中のほうに続いている。こうした隠れ家の入り口のあたりに、楕円形にぼやけた木洩れ日が降り注ぎ、ちらちらと震えているのであった。

 

 そこを赤いネクタイを締めたアブラハヤたちが占有していた。そっと近寄ってみよう。それから腹這いになってよく見よう。なんときれいなんだろう。この喉の真っ赤な小さな魚たちは!

 互いに身を寄せ合い、頭を水の流れとは逆の方向に向けながら、魚たちは頬を膨らませたり、窄めたりしている。まるで、いつまでも口をすすぎ続けているかのようだ。流れ去っていく水の中にじっととどまっているためには、ただ尻尾と背びれを軽く震わせるだけでよいのだ。木の葉が一枚はらりと落ちる。すると、魚の群れはぱっと姿を消してしまう。(つづく)