山本富士子
「『徹子の部屋』に出てはったな」
「だれのこと?」
「山本富士子」
「はあ、元気やったんやね。わからんかったからね」
「わからんかったて、なにが?」
「いやあ、知らんかったから」
「知らんかったて、なんのこと?」
「いや、元気やったらそれでええねん。もういくつなんやろ」
「いくつやろ? 調べてみよか」
「みて」
「1931年12月11日の生まれやから、ママンより15歳上やな。87歳か」
「87歳。いつまでもきれいやね。マニキュアもきれいな赤塗ってはるしええもん着てはるし、やっぱり女優さんは違うな」
「商売やからな。身についてるんやろ」
「映画、どれくらい出てはるんやろ」
「見てみよか」
「みて」
「第1回のミス日本やな、山本富士子。昭和25年やから、まだまだ戦後があっちこっちに残ってたころやろ」
「そう、知らんかったわ」
「4歳のころやからな、ママンは」
「当然か。映画どれくらい出てはんの?」
「数えてみたけど103本。1953年から1963年までの11年間やから年平均10本弱やな」
「すごいね。映画観に行ったらずーっと出てはるみたいなもんやね。今やったら考えられんな」
「それだけ映画が作られてたいうことやな。映画は娯楽の王様言われてたからな。人気のある映画は後ろの立ち見席どころか通路まで人で埋まってたからな。いま言うても若い子は信じられんやろ」
「指定席やからね」
「一番多かった年はな、1958年の15本」
「15本、1年間に?」
「そう、1年間で。これが最高やけど2年前の56年は12本。富士子おっかけがそのころおったら、最高やったやろな」
「ええ、ほんまに。えらい話やなあ、知らんけど」
「こんだけ映画に出て、いろんな人に揉まれて、なあ、一般の会社員なんかとはちょっと違うて、映画俳優なんてクセのある人もようけいてはると思うけど、なんか『徹子の部屋』観てたら育ちのええ女の子がそのまま歳とって今があるみたいな印象やろ。よっぽどおとうちゃんおかあちゃんの育て方がよかったんやろな」
「真似でけへん」
「でけへんな」