朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

落語『蜘蛛の糸』-27

  まだら鬼のブチ太夫によって、閻魔大王の執務室へ引き連れられて来ましたこの老人こそ、お釈迦様に匿名の手紙を書いた張本人だったのでございます。今やこうして亡者となってしまった以上どうすることもできず、かねてから小さい身体をより縮こませて、ガタガタ震えながら、上目遣いに閻魔大王の顔色を伺っております。

 待てば海路の日和あり、渡りに船とはこのことで、閻魔大王はお釈迦様になにか耳寄りの報告が出来そうだと、この小さく縮こまっている老人に、いつもとは違うやさしい声で、手紙の内容と、なぜそれをお釈迦様へ送ったのか、包み隠さず白状いたせと、やさしいなかにも嘘偽りは許さぬぞという威厳に満ちた声で申し渡します。

 老人は、相変わらずガタガタと震えながら、閻魔大王のやさしそうな声色に一層不安を覚えたのか、貧相な身体をこれ以上小さくはなりませんというほど縮めております。

 何気なく、考えもせず出した手紙が、こんなに大騒動になったいるとは、老人にとってはまったく想定外のことで、なにをどう答えていいのやら、自分の軽率さを深く後悔しながら、蚊の鳴くような震える声で話し始めたのでございます。

 ・・・たしか中学生のころだったと思います。国語の時間に『蜘蛛の糸』という芥川龍之介の小説を習ったように思います。先生の話を聴いて、その時どんなことを感じたのか今はもう思い出すことさえできません。ところが最近、といっても半年ほど前のことですが何気なくカーラジオを聴いておりましたところ、『蜘蛛の糸』の朗読が始まりました。もともと朗読を聴くのは嫌いではありませんので聴いておりました。そして、最後まで聴き終わって、「あれッ?」と思ったのでございます。

 と申しますのは、朝の散歩の道すがら、蓮池の透き通る水の底に見える地獄をご覧になったお釈迦様が、たまたま血の池で苦しんでいろカンダタという悪人をご覧になり、これもまたたまたま、たまたまと申しますのは、難しく申しますと偶然にということでございますが・・・

 老人の話は途中ですが、これまでお話いたしましたのは、この老人がいまお話いたしましたようにわかりやすく話したわけではございませんで、行きつ戻りつ、しどろもどろのわかったようなわからないような、閻魔大王はイライラを募らせながらの老人の話で、なにを話してるのか本人さえわからないのを話し手であるわたくしが、掻い摘まんでご説明をいたしました次第で。

 老人がここまで震える声で話しましたところで、とうとう閻魔大王の堪忍袋の緒が切れたのでございます。たまたまを難しくいうと偶然などと、これはこの老人の若いころからのクセで、だれもが知っていることをさも自分だけが知っているという「知ったかぶり」の性格で、閻魔大王がいらだって怒るのも無理のないことでございます。それに目敏く気づいた老人は、空気の抜けたゴム毬のように這いつくばって「ゴメンチャイ、ゴメンチャイ」と謝ったのでございます。

 そして再び話の続きを話し始めようとしたのですが、閻魔大王の怒りに老人の頭のなかはパニックの真空状態、続きを話すことができなくなったのでございます。

 さあ大変なことでございますが、捨てる神あれば拾う鬼あり、この老人を引き連れてまいりましたまだら鬼のブチ太夫が横から助け船を出したのでございます。それをきっかけにしてどうにか落ち着きを取り戻しました老人は、お釈迦様に宛てた手紙の内容について再び、閻魔大王に話し始めたのでございます。(つづく)