朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

自分の番

 祖父が死に、祖母が死に、ちちははが死んで自分の番が来ました。私は5人兄弟(妹ひとり含む)の長男ですからそう考えたわけです。自分の歳(もうすぐ74歳)のことを思うと、自分の「死」についてあれこれ考えるのは当然のことと思っています。といって、遺言書を書くとか、身辺の整理を少しずつ始めましたということもなく、まったく手つかずのままです。

 小学生低学年ころの話です。職員室のとなりが医務室でした。校医は学校近くにある町医者の院長さんが兼ねていました。年に何度か注射を受けました。その度ごとに、医務室の前の廊下に、クラスごと順番を決めて並ばされました。記憶にあるのは冬のことです。素足でした。黒光りのする板張りの廊下の冷たさをいくらかでも和らげようと、互いの足の甲と足裏とをこすりあわせてしのぎながら注射の順番を待っています。

 注射は、大人になっても嫌なものです。だんだん自分の番が近づいてきます。腕まくりした細い腕に鳥肌が生じています。あと二人で次は自分の番です。担任の女先生が肘のあたりをつかむと、アルコールを含ませた脱脂綿で二の腕の一部を拭いてくれます。さあ自分の番です。覚悟するだけです。

 いつのころからか、自分の「死」を、この注射に並ぶ幼い頃の自分に重ねて考えるようになりました。言わば「死」も注射も、順番を待つ間のあれこれを考えるのが、不安の種なのです。済んでしまえばなんてことない。もし将来医療技術が進んで「死」体験ができるようになれば、「死」は「」つきで語られるものでなくなるのではないか、そんな気がします。