朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

むしゃんよか

「いかす」という言葉を流行らせたのは石原裕次郎である。世に蔓延ったのが昭和30年代というからそうとうに古い。

 わたくし朝ぼらけジジイも74歳だから、当然のように遣う。ママン(妻)がいつもと違うちょっとおしゃれな服装で「どう?」などと目の前でクルッと回られたりしたとき、すかさず「おお! いかしてるやないか」と遣うのである。朝ぼらけジジイの寝言である。もう照れたり恥ずかしがったりする歳ではない。

「いかすじゃないか西銀座駅前」という歌詞の歌がある。「低音の魅力」フランク永井が唄っている。

 

 

「向こう横丁のたばこ屋の可愛い看板娘 歳も18番茶も出花いかすじゃないか」。ここでもいかすが遣われている。この歌も随分と歌われた唄である。

 あれから半世紀以上の歳月が流れ「看板娘」は絶滅してしまった。自販機のせいである。たばこは私とは無縁だが、愛煙家にとっては片身の狭い世になった。それにもめげずぷかぷかを続けている奇特な人達にち自販機は、ちょっとは愛想良くしたらどうだ。

 

「むしゃんよか」は「いかす」ほぼ同じ意味である。

 方言と言っていいのかどうか迷うところもあるが、「いかす」「かっこいい」を熊本では「むしゃんよか」と言う。私が子供の頃と同じように今の若い人達が遣っているかどうか知らないが、語源は「武者ぶりがいい」である。

 

 商と武に分けると、熊本は武の国である。

 戦国時代、まだ体や顔に幼さの残った15、6歳の若者が鎧兜に身を固めての初陣である。

 そんなことを想像してひとり悦に入ってる朝ぼらけジジイである。