朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

黒澤映画との出会い(1)

 調べてみますと、『七人の侍』の封切りは、昭和二九年四月二六日になっています。昨日のブログ「活動写真」でも書きましたが、当時私が住んでいた甲佐町には甲佐館、緑館というふたつの映画館がありました。

 記憶をたどればこの映画を観たのは緑館だったように思います。先生の引率で観に行ったように思います。

 昭和二〇年二月生まれの私にとって、昭和二九年といえば、四年生になっています。記憶では、観たのは昭和二七年ごろ、私が一年生か二年生のころだったように思っていましたので、調べてみて意外でした。そのときの『七人の侍』は、面白さとはほど遠い、ただ退屈で暗い映画という印象を受けただけでした。

 当時の私にとって面白い映画といえば、『笛吹童子』や『紅孔雀』、『鞍馬天狗』といった娯楽時代劇でした。家の近くに製材所がありましたので、そこで棒きれを拾ってきては子供同士二手に分かれて、チャンバラごっこに夢中になるという日常でした。

 鞍馬天狗の覆面は、家から持ち出した風呂敷でした。

 チャンバラ映画とごっこを卒業した私は、中学生になり、次に夢中になったのは小林旭でした。「渡り鳥」シリーズです。馬に乗った小林旭がギターを背に颯爽と現れ、牧場などの土地を乗っ取ろうとする悪の一味とやむにやまれず闘う、というのが大まかなストーリーです。

 主人公にほのかに恋心を抱く相手役は、浅丘ルリ子や笹森礼子でした。

 昭和三五年中学校を卒業して二つ職を変えた後、熊本市内にある米屋に住み込みで働いていた私は中古のギターをほぼ給料の1ヶ月分で買い、小林旭がギターを弾きながら劇中で歌う「さすらい」などの練習を始めました。しかし長くは続きませんでした。

 小林旭の相手役だった宍戸錠が「エースのジョー」として主役になり、私の気持ちは宍戸錠へと移りました。眉根に二本の筋を作りニヤリと不敵に笑いながら拳銃の筒先から出る煙をフッと消すという仕草をよく真似たものでした。

 米屋の裏庭で一人その真似をしていたとき、米屋を継いでいた息子さんがトイレで用を足しながら小窓から覗いていたのに気づきました。笑っていました。

 休みは月に一日だったように思います。必ず里帰りをしました。蒸気機関車ヂーゼルカーに取って代わっていました。

 そのころすでに、甲佐駅前にあった祖父の家は競売にかけられ人手に渡っていて、祖父母や母、それに弟妹は甲佐駅のひとつ熊本寄りの駅近くで暮らしを立てていました。

 米屋の近くに映画館がいくつかあり、そこで「渡り鳥」や「エースのジョー」を観ながら、売店で買った紙カップ入りのアイスクリームを食べるのが休みの日の楽しみでした。

 いくつかあった映画館のひとつ、その屋根の高さ辺りに大きな横長の看板が掲げられていたのを今も憶えています。『用心棒』の看板です。

 米屋は一年足らずで辞めました。