朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

ご飯がうまい!(夕食編)

 冬は根菜類がうまい。どうしてかなと思うくらいうまい。白菜やろ、大根やろ、ニンジンにゴボウ。そういえばゴボウはしばらく食ってないな。里芋にホーレンソウ。

 歩いて10分くらいの距離に農家さんがやっている直売所がある。1週間に1度か10日に2度くらいの間隔での店開きだが、シャッターガラガラの10時前にはもう何人かファンが腕組みしたりスマホとにらめっこをしたりして待っている。

 直売所は6畳ほどのスペースだから白菜や大根などのかさばるものはその建物の中には置いてない。したがって注文するとその都度建物の裏から持ってきてくれる。

 その建物のすぐ裏手が生産現場になっている。畑、なんヘーベーあるかわからないがかなり広い。同じ並びにマンションなどもあるから、宅地にすれば、などと考えるのはいらぬおせっかいだ。

 前に白菜を注文したときは在庫ゼロで、ゴム長の若き経営者ご本人が「大きいのでいいですか?」と、さも申し訳なさそうに言われたのにはちょっとひるんだ。「なに言うてまんねん。大きいにこしたことおまへんがな」。値段ははなから決まっているのだ。

 なにが原因だったか忘れてしまったが、当時は白菜に限らず根菜類が「別に食べんでも死なへん」というくらい高かったので「これまるまる、『イズミヤ』で買うたらいくらになるやろ」と妻と話したものだ。

 大根はむろん葉付きだ。切り分けて別々に古新聞で包んでくれる。大根本人の腰回りをぎゅッと握ると指と指のあいだに何センチか隙間が出来る。葉は葉で自己主張している。こいつはちょっとヤンチャだ。

「なんやねん。根のほうばっかり重宝しやがって。オレおっての根やないか。というても一心同体や、べつに根に持ってわけやないけど」

 それに比べると根は大人だ。長い間土の中で辛抱しただけの値打ちがある。「そうかそうか、おまえの言うとおりや。おまえのおかげでこないに太らしてもろうて感謝してる」

 私も言う。「わかってるで。わかってる。おまえのこと無駄にはせんからな」

 

 ひとつに束ねて、ちょうど真ん中あたりでざっくりと切る。家にある一番大きな鍋で湯がく。いかにも自分でやってるみたいに臨場感たっぷりに書いているけど、妻がやってるのの目撃談だ。私は「食う」専門のコメンテーターである。

 1センチほどのざく切りフライパンで炒める。ちりめんじゃこもひとつかみ。これくらい入れないと葉の量に負けてしまうのだ。

 皿に盛るころはヤンチャだった葉もだいぶ温和しくなって湯気を出している。それでもカレーライス用に使っている家では3番目の大皿に山盛りになる。「わーい、大根葉の甲山やー」

 ご飯茶碗8分目、少し少なめによそおってその上にほかほかの甲山を箸でつついて取り崩す。ひと箸、ふた箸、み箸、もういっちょう、どや「これでええやろ」

 上からごまをする、かつぶしを載せる。用心しいしい載せないと鼻息で散る。しょうゆゥを掛ける。いやいや、今日はぽん酢で実験や。

 

 大根を4、5センチの輪切りにする。これを3個作って残りはまた古新聞に包み直してベランダへ。3個の短い円柱の皮を剥く。この皮も捨てない。千切りに刻んでかつぶしプラスしょうゆゥでひと品出来る。いやいやぽん酢が出たままや。これでいこか。

 家一の大鍋が大根の到来を口を開けて待っている。まるまる2個は入るが3個目は半分か3ぶんの1に切り分けないと無理だ。

 豚肉と大根の煮物。大阪流に言えば「たいたん」

 しつこく言うが私は食う専門のコメンテーター。妻がやってるのを時々チラッチラッと覗き見してるだけなので克明には書けない弱みがある。

 落とし蓋に隠れて大根がくつくつ煮えている。落とし蓋の縁のところで豚肉がひらひら舞っている。

 私はこれを覗くのが好きだ。くつくつ煮える音と会話する。「そうかそうか、よう煮えてるかー。頼むでー」

 

 湯飲み茶碗にお湯8、焼酎「かのか」2の用意も出来た。

 家で4番目に大きい皿に厚さ5センチ円柱がひとつ。リボン飾りの豚肉がみつよっつ。雪の白肌がいつのまにかほんのり肌色に色付いて「おいでおいで」と招いている。

「そうかそうか、おれも待ってたで。今晩はひとつ趣向を変えて、おでんみたいにカラシの添い寝といってみよかー!」