朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

黒澤映画との出会い(4)

 新開地本通りを海側(南)から山側(北)へ向かって歩きますと、大開通りと交差する信号に足を止められます。目の前、通りの左角に、この通りでは見ることのない立派な建物が見えます。「聚楽館」です。新開地唯一の洋画封切り館でした。誰かと話をしていて、この館の名前が話題に上ると、必ずと言っていいほどセットになっているのが「ええとこ、ええとこ聚楽館」という言葉です。

 私はここで『ウエストサイド物語』を観、一部から六部まで一挙上映された『人間の條件』を観ました。

 信号を渡り、ここからはアーケード設備のゆるやかな登りになっている通りを二、三分ほど歩くと「湊川公園」で、新開地本通りは歩いて一〇分ほど、一キロメートルにも満たない通りです。

 湊川公園まで行って五〇メートルほど引き返しますと、右角に古書店があります。私はここで本を買って読むようになります。この奥目の前の突き当たりに「湊川温泉劇場」というコンクリート造りの古い建物がありました。

 黒澤映画に『羅生門』があるのを知り、その原作が芥川龍之介の『羅生門』と『藪の中』を題材に映画が作られたのを知ると、その本を買って読むというそんな感じで本を手にするようになりました。芥川龍之介という名前は、小・中学校の国語の本で知っていました。

 山本周五郎の小説を読むようになったのも、『椿三十郎』の原作が周五郎の『日々平安』だと知ったからでした。

 この頃の私は、神戸駅前の「一泊一〇〇円ドヤ」を出て、家賃六千円のアパートに引っ越していました。なぜ引っ越したのかそのわけは、父と私だけだった「一〇〇円ドヤ」に、母と、弟妹の五人が熊本の田舎から出てきたからでした。

 父と私二人のときは外食だけの生活でしたが、母が来たことによって外食する必要がなくなりました。ドヤを管理しているおじいさん・おばあさんの好意で七輪を借り、母の煮炊きが始まりました。とはいっても二段ベッド造りの狭いところです。おまけに一挙に人数が七人に増えたのです。本来なら一泊七〇〇円のところを、これもまたおじいさんの好意で五〇〇円にしてもらうという、そんな生活がしばらく続いた後の引っ越しでした。

 この後私は、湊川公園自衛隊地方連絡部の人に声を掛けられ、陸上自衛隊に入ることになります。一八歳でした。