8月1日
「早いなあ、もう8月やで」
「今日、ついたちやね」
「うん、ついたちや」
「おとーさん、腰はちょっとはよーなった」
「昨日の今日やからな。しばらくはへっぴり腰で徘徊や」
「前になったんは去年の正月やったやろ」
「そーそー。今回のんで何回なったやろ」
「そんなになってるの」
「憶えてるんは、トラックで仕事してたときやから、ママンと一緒になる前かそのころや、思うわ」
「憶えてないなあ」
「そらそーやろ。なったもんやないとわからんからな」
「わからんわ。そないに痛いの」
「動かなんだら特別のことはないけど、ちょっと動いたひょうしにギクッとくるからな。腰砕けになるんや。それでついついへっぴり腰の座頭市んなってまうんや」
「医者行かんでもえーの?」
「一緒や。行っても4,5日はかかるからな」
「じゃあ、ガマンせんとしゃーないな」
「そーゆーこと」
声に出して読む『福袋』(角田光代)ー⑥
第一話『箱おばさん』ー(6)
「あっ」
私が声を出すと、警官がびくりと体をこわばらせて私を見る。ひょっとして、拾得物届け出をしてしまうと、半年後だか一年後だか、あのおばさんがあらわれなかったらこの荷物は私が引き取らなければならないのだろうかと思ったのだが、
「なんですか」と訊かれ、
「いえ、なんでもないです」
私は曖昧に笑って質問しなかった。本当に札束や宝石が出てくることもあるやもしれぬと、せこい考えが浮かんだのである。
念入りに貼ってあるガムテープを、警官は一気に引き剥がした。ガムテープはまるまって、警官の骨張った手にからみつく。それを剥がしもしないで警官はそっと箱のふたを開けた。私ともうひとりの警官は、身を乗り出してのぞきこむ。
靴だった。入っていたのは無数の靴だった。男物も女物も子ども用もあった。土と埃がついた薄汚いものもピンヒールのとれたものも漫画のキャラクターが薄れたものも、いかにも安っぽいが新品同様のものも鼻緒の切れた草履も乾燥した草のこびりついた革靴も、紐のないスニーカーも折り畳まれた古いブーツも、すべて絡まりあうようにごっちゃになって詰めこまれていた。私も、若い警官も、年輩の警官も、言葉を忘れたように無言でその箱の中身を見つめ続けた。いくら見てもそれは靴だった。
さまざまなことが薄く脳裏をよぎっていった。おばさんはやっぱり殺人者であやめた人の靴をこうしてとっておいたのではないか。おばさんは病的な靴泥棒で各家庭から盗んだ靴をためこんだのではないか。おばさんはいたずら好きで旅館の玄関から客の靴をみな持ち出してしまったのではないか。あるいは、あるいは・・・・。段ボール箱につまった無数の靴は私を混乱させた。何かそれらしい答えを導き出して混乱を鎮めたかった。警官二人も、何かじっと考えているふうであった。しかし、私たちはどのように推測しても、そこにあるのはただ、靴だった。いっさいの物語を拒絶するような靴。
「ま」
と一言、年輩の警官はつぶやき、何事もなかったように段ボール箱にふたをした。机の引き出しからガムテープを出し、素早く段ボール箱を閉じた。ガムテープをひっぱるときのぺりぺりぺりという音が、なんだか笑い声みたいに聞こえた
「じゃああの」
私は立ち上がった。警官二人はぼんやりした顔で私を見る。「失礼します」私は一礼して、若い警官が口を開きかけたが、逃げるように交番を出た。
靴でしたよと、店長と琴ちゃんに伝えにいくつもりで、改札に向かう階段を駆け下りた。あのね、靴だったの。靴が馬鹿みたいにいっぱい。それだけだったんだよ、なんだったんだろう。あれ。キヨスクを通りすぎると十数メートル先に自動ドアが見え、「味の小径」のアーチが見え、私の働く洋菓子店が見えた。店長はこちらに背を向けワゴンの中身を整理している。琴ちゃんはレジで接客している。ミイラでも猫の首でもなく靴だったよ、と言うべきことを頭のなかでくりかえしながら、「味の小径」へと続く自動ドアを左手に見て通りすぎ、駅の反対側へ抜ける階段を駆け上がっていった。
明日、明日なんと言おう。札束だったと言ってやるか。それとも、ばらばら死体だったと脅かしてやるか。そんなことを思いながら自転車置き場に向かい、自分の自転車を引っぱり出す。いや、ふたを開けたと言わなくたっていいんだ、何が入っているかわからないまま置いてきたと言えばそれでいいのだと、なぜか必死に思いながら、帰宅を急ぐ人をよけてペダルを漕いだ。夜空は紫色で、月は櫛形レモンのようだった。
声に出して読む『福袋』(角田光代)ー⑥
第一話『箱おばさん』ー(6)
「あっ」
私が声を出すと、警官がびくりと体をこわばらせて私を見る。ひょっとして、拾得物届け出をしてしまうと、半年後だか一年後だか、あのおばさんがあらわれなかったらこの荷物は私が引き取らなければならないのだろうかと思ったのだが、
「なんですか」と訊かれ、
「いえ、なんでもないです」
私は曖昧に笑って質問しなかった。本当に札束や宝石が出てくることもあるやもしれぬと、せこい考えが浮かんだのである。
念入りに貼ってあるガムテープを、警官は一気に引き剥がした。ガムテープはまるまって、警官の骨張った手にからみつく。それを剥がしもしないで警官はそっと箱のふたを開けた。私ともうひとりの警官は、身を乗り出してのぞきこむ。
靴だった。入っていたのは無数の靴だった。男物も女物も子ども用もあった。土と埃がついた薄汚いものもピンヒールのとれたものも漫画のキャラクターが薄れたものも、いかにも安っぽいが新品同様のものも鼻緒の切れた草履も乾燥した草のこびりついた革靴も、紐のないスニーカーも折り畳まれた古いブーツも、すべて絡まりあうようにごっちゃになって詰めこまれていた。私も、若い警官も、年輩の警官も、言葉を忘れたように無言でその箱の中身を見つめ続けた。いくら見てもそれは靴だった。
さまざまなことが薄く脳裏をよぎっていった。おばさんはやっぱり殺人者であやめた人の靴をこうしてとっておいたのではないか。おばさんは病的な靴泥棒で各家庭から盗んだ靴をためこんだのではないか。おばさんはいたずら好きで旅館の玄関から客の靴をみな持ち出してしまったのではないか。あるいは、あるいは・・・・。段ボール箱につまった無数の靴は私を混乱させた。何かそれらしい答えを導き出して混乱を鎮めたかった。警官二人も、何かじっと考えているふうであった。しかし、私たちはどのように推測しても、そこにあるのはただ、靴だった。いっさいの物語を拒絶するような靴。
「ま」
と一言、年輩の警官はつぶやき、何事もなかったように段ボール箱にふたをした。机の引き出しからガムテープを出し、素早く段ボール箱を閉じた。ガムテープをひっぱるときのぺりぺりぺりという音が、なんだか笑い声みたいに聞こえた
「じゃああの」
私は立ち上がった。警官二人はぼんやりした顔で私を見る。「失礼します」私は一礼して、若い警官が口を開きかけたが、逃げるように交番を出た。
靴でしたよと、店長と琴ちゃんに伝えにいくつもりで、改札に向かう階段を駆け下りた。あのね、靴だったの。靴が馬鹿みたいにいっぱい。それだけだったんだよ、なんだったんだろう。あれ。キヨスクを通りすぎると十数メートル先に自動ドアが見え、「味の小径」のアーチが見え、私の働く洋菓子店が見えた。店長はこちらに背を向けワゴンの中身を整理している。琴ちゃんはレジで接客している。ミイラでも猫の首でもなく靴だったよ、と言うべきことを頭のなかでくりかえしながら、「味の小径」へと続く自動ドアを左手に見て通りすぎ、駅の反対側へ抜ける階段を駆け上がっていった。
明日、明日なんと言おう。札束だったと言ってやるか。それとも、ばらばら死体だったと脅かしてやるか。そんなことを思いながら自転車置き場に向かい、自分の自転車を引っぱり出す。いや、ふたを開けたと言わなくたっていいんだ、何が入っているかわからないまま置いてきたと言えばそれでいいのだと、、なぜか必死に思いながら、帰宅を急ぐ人をよけてペダルを漕いだ。夜空は紫色で、月は櫛形レモンのようだった。
うまいこと、いかんなあ
「うまいこと、いかんなあ」
「どーゆーこと?」
「タイガース」
「どやったん?」
「ぼろ負け」
「何対何?」
「16点も取られた」
「16点! えらいこっちゃ、やな」
「2連勝したからな、ジャイアンツに」
「3連勝したら『アッパレタイガース!』言お思てたんやけどな」
「うまいこといかんね」
「うまいこといかん。前のふたつもヒヤヒヤドキドキ、やっとの思いで勝ったんやけど、ついでにもひとついったれ思たんやけど」
「うまいこといかんね」
「うまいこといかん。半沢直樹以上やな。倍々返しでやられてもーたな」
「ふたつ勝ったんやからえーと思わんと」
「そーやな。負けたこと思えば2勝1敗やからな。ぜーたくゆーとれんな」
「そーそー。ずっと2勝1敗でえーねん。これでいこ」
「簡単にゆーたな」
「プロやろ、タイガース。出来るて」
「ほなそーしとこか。2勝1敗のペースで、時々は3連勝やな」
「ほらおとーさん、また欲出すやろ。えーねや2勝1敗で」
「わかりました」
声に出して読む『福袋』(角田光代)ー⑤
第一話『箱おばさん』ー(5)
次の日、昼を過ぎても三時を過ぎてもおばさんはあらわれなかった。私は上の空で棚の掃除をし、品物を陳列し、接客した。駅から吐き出される人々、「味の小径」を通って駅に向かう人々、すべての人の顔を目で追っておばさんを捜した。そのうち、だれを待っているんだかわからなくなってきた。昨日私の前に立ったやばくなさそうな中年女性を思い描こうとすると、母親や親戚や、中学時代の女教師がなぜか思い浮かんでは消えた。
私と琴ちゃんは、客足が途絶えるとレジ裏にしゃがみこんで、段ボール箱に鼻を近づけたり、ちいさく揺すってみたり、二人で持ち上げたりしてみた。交番だ、交番持ってけ葛原と、店長はいきなり呼び捨てで私の名を連呼していた。
午後七時を過ぎると、「段ボール箱を交番にひとりで届けるのならあがってよし」と店長が言った。「味の小径」の従業員専用控え室で私服に着替えたのち、店にいって段ボール箱を持ち上げた。
「がんばってね」と琴ちゃんは言った。店長はむっつりとしてそっぽを向いていた。重たいそれを、腹で支えるようにして持ち、
「お疲れさまでした」私は二人に告げて歩き出した。
交番は、改札を過ぎ地上へ続く階段をのぼり、数メートル右手に歩いたところにある。私は箱を抱えたままよたよたと階段を目指した。大きな段ボール箱を抱えて歩く私を、数人がふりかえって見た。なんだかそのまま、キヨスクに直進し「すごく悪いと思うんですけど荷物を預かってもらいたいんです」と、あのおばさんそっくりに言いたい衝動を覚えた。キヨスクでせわしなく働く太ったおばさんを横目で見ながら通りすぎる。階段をのぼりきるころには息が切れた。
交番にいた警察官も、店長と同じくらい迷惑そうな顔をした。事務机を挟んで二名の警官と向き合い、私は事情を説明したのだが、くわしく話せば話すほど、自分が問いただされている気になってくる。
「だからァ、本当なんですってばァ、昨日、改札を出た女の人がァ」
しどろもどろになってへんな汗をかきはじめている自分をごまかすために、私は例の、なんにもわかっていない小娘ふうにたどたどしくしゃべった。彼らが私をなんにもわかっていない小娘と思ったか否かはわからないが。
「じゃあ、この用紙に必要事項を記入して」
一通り私の話を聞き終えると、年配のほうの警官が、私の前に拾得物届け出用紙を置いた。背をまるめ、名前や住所を書いていると、「中身はなんだ」「開いてないのか」「預かりものだし」ともそもそ二人が話し合う声が聞こえた。私は顔を上げ、
「開けてください」と言った。「へんなものかもしれないし、あっ、へんなものかどうか私は知りませんよ、預かっただけだから。ただ、ほら、お金とか、宝石とか、そういうものだったらやばいじゃないですか。もっとへんなものかもしれないし」嬰児のミイラとはさすがに言えなかった。
警官は私をちらりと見ると、声を落としてさらに何か話し、開ける方向で話はまとまったらしく、床に置いた段ボール箱の前に若い警官がしゃがみこんだ。(つづく)
頼むで タイガース
「やっと勝ったな、ジャイアンツに。けっこーけっこー、コケコッコーや」
「ひやひややったけどね」
「そーそー。何回やったか、6回か、同点になったときは『今日もまたかい』思たけど、やったなソラーテ。そないスピードで走らんでもえやないか思たけど、あれは効いたな」
「あの人、新しく入った人やろ。名前なんやったかな?」
「ソラーテや」
「ソラーテ言うん?」
「そー、デビュー戦でイッパツやからな。うまいこと続けばえーけどな」
「すっきりして、えーオトコやないの」
「ああ、髪の毛も刈り込んですっきりしてるし、あんなんがえーで。伸ばすのは本人の自由やからええけど、押さえのピッチャーのドリスか、あれ出て来たら、暑苦しーてあかんわ」
「本人の自由やからね。けど最後は藤川やったやろ? だれなん、ドリス? なんでドリス出てこんの? いつも最後出てたのに」
「2軍におるみたいやな。調子落としてるんやろ。藤川出てきたときは大丈夫かいな思たけど、すぐに打たれたやろ2塁打、『ああ!』思たけど、うまいことジャイアンツの強力バッター斬ってとったな」
「おとーさん、アカン思てたやろ」
「思てた。けど藤川も髪の毛切って、すっきりしてたな。藤川が頑張ってるんはえーけど、もうベテランやで。藤波、どないしてるんや、はよ出てこい」
「そのうち出てくる思うよ。きっかけやと思うわ。ちょっとしたことやろけど」