朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

声に出して読む『福袋』(角田光代)ー⑥

 第一話『箱おばさん』ー(6)

「あっ」

 私が声を出すと、警官がびくりと体をこわばらせて私を見る。ひょっとして、拾得物届け出をしてしまうと、半年後だか一年後だか、あのおばさんがあらわれなかったらこの荷物は私が引き取らなければならないのだろうかと思ったのだが、

「なんですか」と訊かれ、

「いえ、なんでもないです」

 私は曖昧に笑って質問しなかった。本当に札束や宝石が出てくることもあるやもしれぬと、せこい考えが浮かんだのである。

 念入りに貼ってあるガムテープを、警官は一気に引き剥がした。ガムテープはまるまって、警官の骨張った手にからみつく。それを剥がしもしないで警官はそっと箱のふたを開けた。私ともうひとりの警官は、身を乗り出してのぞきこむ。

 靴だった。入っていたのは無数の靴だった。男物も女物も子ども用もあった。土と埃がついた薄汚いものもピンヒールのとれたものも漫画のキャラクターが薄れたものも、いかにも安っぽいが新品同様のものも鼻緒の切れた草履も乾燥した草のこびりついた革靴も、紐のないスニーカーも折り畳まれた古いブーツも、すべて絡まりあうようにごっちゃになって詰めこまれていた。私も、若い警官も、年輩の警官も、言葉を忘れたように無言でその箱の中身を見つめ続けた。いくら見てもそれは靴だった。

 さまざまなことが薄く脳裏をよぎっていった。おばさんはやっぱり殺人者であやめた人の靴をこうしてとっておいたのではないか。おばさんは病的な靴泥棒で各家庭から盗んだ靴をためこんだのではないか。おばさんはいたずら好きで旅館の玄関から客の靴をみな持ち出してしまったのではないか。あるいは、あるいは・・・・。段ボール箱につまった無数の靴は私を混乱させた。何かそれらしい答えを導き出して混乱を鎮めたかった。警官二人も、何かじっと考えているふうであった。しかし、私たちはどのように推測しても、そこにあるのはただ、靴だった。いっさいの物語を拒絶するような靴。

「ま」

 と一言、年輩の警官はつぶやき、何事もなかったように段ボール箱にふたをした。机の引き出しからガムテープを出し、素早く段ボール箱を閉じた。ガムテープをひっぱるときのぺりぺりぺりという音が、なんだか笑い声みたいに聞こえた

「じゃああの」

 私は立ち上がった。警官二人はぼんやりした顔で私を見る。「失礼します」私は一礼して、若い警官が口を開きかけたが、逃げるように交番を出た。

 靴でしたよと、店長と琴ちゃんに伝えにいくつもりで、改札に向かう階段を駆け下りた。あのね、靴だったの。靴が馬鹿みたいにいっぱい。それだけだったんだよ、なんだったんだろう。あれ。キヨスクを通りすぎると十数メートル先に自動ドアが見え、「味の小径」のアーチが見え、私の働く洋菓子店が見えた。店長はこちらに背を向けワゴンの中身を整理している。琴ちゃんはレジで接客している。ミイラでも猫の首でもなく靴だったよ、と言うべきことを頭のなかでくりかえしながら、「味の小径」へと続く自動ドアを左手に見て通りすぎ、駅の反対側へ抜ける階段を駆け上がっていった。

 明日、明日なんと言おう。札束だったと言ってやるか。それとも、ばらばら死体だったと脅かしてやるか。そんなことを思いながら自転車置き場に向かい、自分の自転車を引っぱり出す。いや、ふたを開けたと言わなくたっていいんだ、何が入っているかわからないまま置いてきたと言えばそれでいいのだと、、なぜか必死に思いながら、帰宅を急ぐ人をよけてペダルを漕いだ。夜空は紫色で、月は櫛形レモンのようだった。