朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

落語『蜘蛛の糸』-6

「えッ? ここからが、いままでのはかくかくしかじか経過説明、そうでっかあ? ややこしおまんねんなあ。その手紙の主、はあはあ、へえへえ、おかしいんやないかと、はあ? お釈迦はんに向こうてなんとバチ当たりな、ようもそんな無礼なことを手紙とはいえ、許されまへんな。どこのどいつでんねん、言うておくれやす。わてが行って・・そうでっかあ、匿名でしたなあ。はあはあ、お釈迦はんが大泥棒のカンダタを助けようと思わはるは仕方ないけど、それを実行に移すというその気がしれん、と書いてありまんの? 言われてみりゃあ、いえいえ、ちゃいまんねん。はあ、お釈迦はんともあろうおかたやなのに、そのあとどないなことになるかぐらい想像できるやろと、はあ、手紙ですわなあ。けどお釈迦はん、これ、あくたがわなんとかいう小説家の作り話でっしゃろ。気にすることおまへんのとちゃいますか。はあ? フィクションとはいえ、そう思われているのは耐え難い。なにをおっしゃいますやらお釈迦はん、そんなんやったら、わてらはどないしまんねん」

 とは言いつつも閻魔大王、お釈迦様のおっしゃるその張本人であるあくたがわなにがしが今、どこでなにをしているのか、生きているのか死んでいるのか、その所在がわかれば、どうしてそのような内容の小説を書いたのか、お釈迦様は、その理由を訊いてほしいと閻魔大王にお頼みになります。かしこまりました、では事情がわかり次第と閻魔大王、長々と続いた電話を切ったのでございます。

 さて閻魔大王の仕事場、つまりお裁きの場所はと申しますと、ちょうど、テレビ等でやっております裁判の場面を想像して戴きますとわかりますが、閻魔大王の座る席は、亡者が赤鬼青鬼に伴われて連れてこられるところより5尺、と申しますから訳1、5メートルほど高いところにこしらえてございます。閻魔大王と亡者の距離感、このくらいの高さがちょうどいいんじゃないかと計算されて設計されているのでございます。これが反対に、20メートルも30メートルも高かったり、反対に亡者が見下ろすようなところに大王の席がありますと、これはちょっと具合が悪い、というわけで。

 また、裁判所の法廷室にはないものと申しますと、閻魔大王の後方、一段高いところの壁には大きな、縦5メートル横10メートルにもなろうかという大きな壁画が掲げられております。言わずと知れた地獄絵図というやつで。血の池やら針の山やら、おどろおどろしい色彩で画面いっぱいに描かれております。男女を問わぬ数多くの亡者が、あばら骨が浮き出た痩せさらばえた身体にわずかばかり腰の周りにぼろ布をまとい、恐ろしい形相をした赤鬼青鬼に追い立てられております。大きく剥き出しになった両方の目は恐怖のため半分ほども飛び出しております。口をいっぱいに開き、必死の形相で右往左往だれかれ構わず助けを求めて両腕を前に突き出し、逃げ惑っております。ザンバラになった髪の毛を振り乱して、それはもう生きた心地がいたしません。死んだあとに生きた心地がしないというのもおかしな話ですが、地獄絵図を前にした者の正直な気持ちでございます。もともと、このお裁きの場というところは薄暗いもので。ところがこれでは亡者どもに地獄絵図がはっきり見えないだろうと、壁画の下3カ所から明らからず暗からずのスポットライトが当てられております。画面には、大きな石臼に何人も放り込まれて杵で搗かれている者や、2匹の鬼に手脚を持たれ引き裂かれ、辺り構わず真っ赤な血を噴きちらかしている者、鬼の手にするあの大きな金棒、あの鋭く尖ったイボイボのついたそれでもって、1本足打法よろしく思いっきり振り回され、大の字のブーメランになって空中遊泳している者、それはそれは身の毛もよだつ、目を覆わなければ見られない、覆えばなんにも見られないというほどの地獄のさまが毒々しい色彩で描かれております。亡者の心胆を寒からしめる効果は覿面なのでございます。

 だれがこんな絵を描いたのだろうと目をこらしてよく見ますと、絵の左下のところにこの壁画の作者の名前が見えます。アルファベット大文字の縦書きで『TARO』と書かれておるのでございます。(つづく)