朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

落語『蜘蛛の糸』ー19

 と、50メートルばかり向こう岸の、ちょうどその淵のあたり一面の川霧が急にふわりと持ち上がったのでございます。なんだろう? と川漁師、その盛り上がった川霧を不思議そうに眺めております。と、そこから、盛り上がった白い川霧のもやを2メートルばかり突き破って、大きな蛇の頭を思わせるまさに怪物といって差し支えのない生き物が姿を現したのでございます。

 しかし、川漁師が目撃したのはほんの一瞬のことで、その生き物はすぐに水を叩く音とともに川霧のなかに姿を消したのでございます。

 一瞬なにが起こったのか、我を忘れてその淵のあたりを眺めておりました川漁師、恐ろしいという思いが急に湧き起こり、我に返るとブルッブルッと身震いをいたしますと水中眼鏡もうなぎを捕る道具もそこに置いたまま、倒けつ転びつ跳ぶように逃げ帰ったのでございます。

 その噂は川漁師の口から口へ、それを聞いた者の口から口へと伝わり、二日と経たぬあいだにその町中のだれ一人として知らぬ者はなし、ところがその目撃をいたしました川漁師、その当日から、原因不明の熱病で床に伏せったまま起き上がることもなく、まだ38歳という男の最も力の出る働き盛りのなか、気の毒にも亡くなったのでございます。

 噂というものは当然のように尾ヒレのつくもので、川漁師が亡くなったのは彼が目撃した大蛇のたたりのせいに違いないとか、また、その大蛇だったらおれも見た、わたしも見たという者まで現れ、町中が、阿波踊りほどの賑やかさはございませんが、あちらで一塊こちらでひとかたまり、向こうでは額を寄せてひそひそ、手前ではああだこうだ違う違わぬと半分喧嘩まがい、その得体の知れない生き物の噂話で盛り上がっているのでございます。

 さて、いま申しましたように、いつのまにか話が大きくなるのは世の常、でございまして、川漁師が目撃した大蛇の大きさはそんな小さなものではなかった、それは子供のほうではなかったのかとか、川原で日向ぼっこをしていたのをたまたま通りがかって見たという者は、トグロを巻いていたので頭から尻尾までの長さは正確にはわからないが、ゆうに38メートルはあったとか、またある男の話では、雨のしとしと降る夕闇のなか、低く垂れた黒雲を巻き込んでその渦巻きのなかを空高く昇っていったか。・・・この手の噂話というものは話す人の両腕を縛って聞け、そう申します通り、どこまでが本当のことか保証の限りではございません。

 とは申しましてもその後、だれ言うとなくその淵を「大蛇ヶ淵」と呼ぶようになり、近づく者はいなくなったのでございます。(つづく)