朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

落語『蜘蛛の糸』ー54

 ところが、ふてくされてぷっとふくれておりました雲が、呼びかけになったお方がお釈迦様だとわかりますと、いくつかのちぎれ雲を残したままあわてて駆けつけます。そして、お釈迦様の足元にピタリととまります。

 するとお釈迦様は足元の雲に向かって、言葉にはなさいませんが、両手の平を上にして、もう少し上に来るようにと両手の平を上げたり下げたりなさいます。

 雲はお釈迦様の胸のあたりでピタリと止まります。

 お釈迦様はその雲をじっとご覧になり、おもむろに右の手を雲の端の一点にお近づけになり、指先で軽くお摘まみになりますとゆっくりと下のほうへ引っ張るという、すると、まるで手品でも見るようにその一点から編んだ毛糸がほどけるようにスルスルと雲の糸が出来上がったのでございます。

 蓮池を覗きますと遙か下のほうに地獄が見えます。もちろんこれはお釈迦様がご覧になるから見えるわけで、言わばお釈迦様の目は法力によって顕微鏡のように拡大ができるのでございます。

 最初に雲の糸を頼りに下へ降りるのは黄鬼のキー子で、続けてお地蔵様、そして最後にお釈迦様という順番でございます。

 お釈迦様はおもむろに雲の糸におつかまりになると、すぐ横でぴったりと寄り添っておりました弁天さんがお釈迦様の着物の裾を少しばかりたくし上げ、お御足を蓮池へと、まるで母親が子供のオシッコを手助けするようなかいがいしさで、お釈迦様が蓮池の水のなかへ雪のように白いお御足をお浸しになると、そのままスルスルと地獄へ向かって下りてゆかれたのでございます。

 蓮池の水面には波紋が広がり、かすかに蓮の葉を揺らしますと、開き始めた蓮の花の香りがあたりにただよいます。

 水中でお吐きになった息が一房のぶどうのように白いかたまりとなって、踊るように上がってまいりますと水面で弾けます。

 なにごともなくキー子、お地蔵様、お釈迦様と順に雲の糸を伝って下りて行かれるのが蓮池から見えます。残っております38億の天上界の人々は蓮池の回りを取り囲んで、まえの人の肩や腰の上に乗っかり、またその後ろの人はそのまた上の人上の人に重なってと、その一番上に陣取っている人は蓮池から地獄までの距離より長いという、このようなことがあるのかという、それがあるのでございます。

 お釈迦様一行が段々と地獄が近くに見えるところまで下りてまいりますと、なんということでしょう、地獄の血の池から亡者の群れが続々と雲の糸に取り縋って登ってくるではありませんか。

 ちょうどそのとき、お釈迦様の耳にキリキリというかすかな音に聞こえ、なんだろう? と顔を上げてご覧になると、なんということでしょう、お釈迦様がおつかまりになっているすぐ上の雲の糸がほつれて細くなり、いまにも切れんばかりにキリキリと悲鳴をあげております。

「えらいこっちゃ!」

 思わずお釈迦様は下に向かってお叫になります。

「あかん! アカン! 下りろ、下りろ! 下りんかい! 切れてまうやないか!」

 そしてこれもまた思わずでございますが、すぐ下で雲の糸につかまっておりますお地蔵様の頭を思いっきり、水に濡れてひんやり冷たくなった雪のように白いお御足でお蹴りになったのでございます。

 その瞬間のことでございます。お釈迦様が取り縋っておいでの雲の糸が、そのすぐ上、キリキリかすかな音を発しておりました場所からプツリ! と音も立てずに切れてしまったのでございます。

「落ちるゥゥゥゥゥゥゥーーーーーーーーー!」

「る」から「ゥ」、「ゥ」から「ーーーー」へと続く部分がコダマか余韻となってしばらくあたりに響いておりましたが、やがてそれも止んで何事もなかったように静かに・・・

 ・・・血の池では、亡者の群れに混じってスイカとメロン、それに2本のツノがプカプカと浮いたり沈んだりしております。

 ・・・天上界にも夕闇が訪れようとしております。西の空の果てはあかね色に染め上げられて、いつ見ても、あそこには極楽があるに違いないと思わせるような、夢でしか見られない色で輝いております。

 天上界の住人38億の人々それぞれがマイスイートホームへと帰り、蓮池のほとりに静寂が訪れます。のんびりと糸を水中に垂らしたままの雲がひとつ、水面にその姿を映しています。

 よく見ますと蓮の葉の上には、お釈迦様がお捜しになったときにはどこに隠れていたのか姿を見せなかった蜘蛛が1ぴき、円形の巣を張っております。その巣の真ん中には、黒色の胴体につやのある黄色い3本の横すじを持った蜘蛛が、8本の脚を広げております。

 いつもと変わらぬさわやかな風は甘い薫りをただよわせて、極楽にしかいないといわれる極楽鳥は、甘い愛の唄を奏でております。

 極楽の世界にも夜のとばりが下り始めて、西の空あかね色の夕焼けはいつしかパープル色となって、蓮池の蓮の花は、これまで放っていたえもいわれぬいい薫りを花弁に閉じて、はや眠りに落ちようとしております。(おわり)