朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

声に出して読む『ファーブル昆虫記』(幼年時代の思い出)ー3奥本大三郎訳

 この繊細な荷物は、私がちょっとつまずいても割れてしまうであろう。だから私は、それ以上丘を登るのをあきらめた。お陽様が昇ってくる丘の頂きの、木々が立ち並んでいるところまで行く機会はそのうちまたあるだろう。私は斜面を降りていった。

 ところが丘のふもとのあたりで私は、助祭様に出会った。聖務日課書を読みながら散歩しておられるところであった。助祭様は、まるで私が聖遺物でも捧持しているかのように、慎重にそろりそろりと歩いているのを見たのだ。そして私が背中に手をまわしているのを見て、何か隠して」いるな、と見てとったのである。

「おまえ、何を持っているんだね」

 と助祭様は私に尋ねられた。

 私はすっかりとまどってしまって手を開き、苔の蒲団の上の青い卵を見せた。

「ああ! サクシコルの卵だな」

 と助祭様は言われた。

「いったいどこでこれを採ってきたんだね」

「上のほうの、石の下です」

 

 次々に質問されて私は小さな罪を告白した。ーー偶然巣が見つかったんです。初めから探してたわけじゃありません。卵は六つありました。そのうちのひとつを採りました。これです。僕、ほかの卵が孵るのを待ってるんです。雛にしっかりした羽根が生えそろったころ、またあの巣のところに行って全部取ってやろうと思ってます・・・。

「おまえ、ね」と助祭様は言われた。

「そんなことしちゃいかんよ、小鳥の母親から雛を盗んだりしてはいかん。罪もないあの家族を大切にしてやるんだ。小鳥たちが大きくなったら、巣立ちさせてやりなさい。小鳥は野の喜びなんだ。土の中の害虫を退治してくれるんだよ。いい子だから、小鳥の巣には二度と手を出すんじゃないよ」

 もうそんなことしません、と私は約束し、助祭様は散歩を続けられた。まだ幼くてよく耕されていない知性の畑に、私はふたつの善き種子を蒔いてもらって家に帰ったのだった。

 権威ある言葉が私に、小鳥の巣を壊すのはいけないことなのだと教えてくれたのである。どんな具合に小鳥が、畑の収穫に大きな害を与える虫を退治して人間の助けになるのかは、よくわからなかったけれど、親鳥を悲しませるのは悪い行ないなんだな、と心の奥底で感じることはできた。

 

「サクシコル」と助祭様は私の発見した卵を見て言った。「へえ、そうなんだ!」と私は思った。僕たちと同じように、動物たちにも名前があるんだ。誰が名づけたんだろう。

 野原や森の、僕の知ってる鳥や獣はなんという名前なんだろう。サクシコルという言葉にはどんな意味があるんだろう。

 

 何年かして私はラテン語の勉強をし、サクシコルというフランス語はラテン語に由来するもので、もともと「岩に住む者」という意味があることがわかった。

 たしはにあの鳥は、私がうっとりと卵に見惚れているあいだ、尖った岩の先端から先端へと飛びまわっていたし、その住まいというか巣では、大きな石の縁の部分が屋根の役目を果たしていた。その後、私の学力がもっと進んでいろいろと本を拾い読みしているうちに、岩だらけの斜面を好んで住むこの小鳥は、フランス語ではモットウーとも呼ばれるということがわかった。なぜかというと、これは畑を耕す季節になるとモットつまり、「土くれ」から「土くれ」へと飛び移り、掘り返されてミミズやコガネムシの幼虫などのいっぱい出てくる畝で餌を探してまわるからである。

 最後に私は、この鳥の「腰白」(キュ=ブラン)というブロヴァンス地方での名前を知った。これもまた実に言い得て妙、というべき表現で、この鳥が畝のあいだをぱーっ、ぱーっと短く飛翔する拍子に、腰の付け根にある白斑がまるで畑の中をひらひらと舞う白い蝶を連想させるのである。

 こんなふうにしてさまざまな言葉が生まれるのだ。こんな名前のおかげで、のちに私は野外の舞台に登場するたくさんの役者たち、道端でわれわれに微笑みかけるたくさんの花々に、その正統な名前で挨拶できるようになったのだ。

 助祭様がなんの気なしに口にした言葉は、私にひとつの世界を、草や動物が、その正式な名、つまり学名で呼ばれる世界を教えてくれたのである。

 動植物の名称という膨大な体系を読み解く仕事はいつかまたやることにして、今日のところはサクシコルつまりハシグロヒタキの名を思い出すにとどめておこう。(つづく)