記憶についての考察
「ビビったな、昨日は」
「えっ? なんか怖いことあったん」
「いや怖いことはないけど、恐怖といやあ恐怖やな。自分のこれからに関することやからな」
「また、おとーさんは。なんでもオーバーに言えばええ思て。なにが自分のことに関するやのん」
「いや、オーバーやない、いつかわからんけどママンやカトリーヌ(娘の名前)に迷惑かけることになるからな」
「迷惑かけるて、なんのことよ。おカネのことなら、もうイヤいうほどかかってるけど」
「わかってるてそれは。それ以外のことや」
「なんのことよ。言うてることわからんわ、いつものことやけど」
「片岡千恵蔵、知ってるわな」
「なんやのん急に?」
「知ってるわなあ」
「知ってるよ」
「昨日な、あの人の名前が出てこんかったんや」
「ど忘れ、いうことやろ」
「そう、ど忘れ」
「だれでもあることやないの、そんなもん、おおげさやな、ほんまに」
「いやあ、ママンが言おうとしてることはわかるよ。けどな、おれが言いたいのはそんなこっちゃないねや」
「どんなことよ」
「そらな、天知茂の名前が出てこん、市川雷蔵の名前が出てこん、ちょっとど忘れしたいうたらまだど忘れでしゃあない思うけど、片岡千恵蔵の名前がスッと出てこんいうたら、これちょっと重症とちゃうか思てな、ビビったんや」
「ハハハ、そんなことかいな。わたしかて片岡千恵蔵、出てこんことあるよ」
「おれとママンではちゃうからな。その脳にインプットされてる度合いが」
「そおお?」
「そうやて。片岡千恵蔵、親の名前忘れても忘れん思てたのに」
「またおとーさん、ええかげんなこと、言いな。怒らはるで、おとうさんおかあさん」
「場所が違うらしいな」
「場所て、なんのこと?」
「脳の中のな、記憶する場所がちゃうんやて」
「名前と顔やろ」
「そうそう。脳もけったいなことするやろ。顔と名前、同じとこでセットで記憶してたらええのに。そしたらど忘れもなくなるやろにな」
「わたしもそう思うけど。けど、そうや! こういうこと違う」
「なに? 違うて」
「脳がな、同じとこで記憶してたとするやろ。そらたしかに思い出すときは便利やけど、歳とって、脳も老化して、記憶場所が1ヶ所やったら顔も名前も両方とも忘れてしまうという危険もあるわけやろ。そやさかい脳は、危険の分散という意味で別々の場所で記憶してるんと違うかな、知らんけど」
「トレビアン! さすがママン、フランス人だけのことはある」
「もうええ、もうええ」