朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

落語『蜘蛛の糸』ー50

 ・・・お釈迦様とお地蔵様、くりくりの坊主頭がふたつ対面しております。おふたりの身長の差は大人と子供、お地蔵様の上背はお釈迦様の半分ほどで、もしおふたりがこちらを向いて立っておられるとしてそれだけで笑いが取れるという、芸のない漫才師にはうらやましいおふたりの立ち姿でございます。

 それを見ておりました孫悟空、機転素早く自家用ジェットのキント雲を呼び寄せましておふたりにその上にお座りになるよう勧めます。

 お地蔵様の話が静かに始まります。

「・・・ロングロングタイムアゴー・・ある村の村はずれ、道の端で修行をいたしておりましたときのことでございます。春遠からじ、梅のつぼみもかすかに紅を差そうかというある日のことでございました。ところが、あてごととふんどしは向こうから外れるの喩え通り、その日は、その冬一番の冷え込みで、わたくしも修行の身とはいえこうしてただ立っているのがうらめしくせめて手足など擦り合わせて暖がとれればなどと情けなく思っておりましたところへ、見憶えのあるこの村の子供達が5,6人、まだ年端もゆかぬひとりの男の子を追うてわたくしの目の前までやってまいりました。

 それぞれが皆、手に手に棒きれを持ってチャンバラごっこが始まりました。ところが、チャンバラごっこと申しましてもそれは名ばかり、その年端もゆかぬ男の子ひとりにその子より2つ3つは年嵩の身体の大きな子供達がよってたかって棒を振り上げているのでございます。これはもう明らかに遊びではなくいじめで、その子の身なりはと申しますと髪の毛はボーボーの伸び放題、着ているものと申しますとそれは着物といえば名ばかりで元の生地さえわからぬほどの継ぎはぎだらけ、切れかかった細縄でその着物を腰のあたりで縛っております。

 しかしそれもほとんど役には立たず、前ははだけて脇の下のあばら骨も透けて見えるほどの痩せよう。腰から下は何も着けておりませんのでかわいらしいのが丸見え・・・いやいや、まだ頑是ない子供のことですからそれはそれとして、垢まみれの裸足の足はシモヤケやアカギレで腫れ、あちらこちらと血がにじんでおります。

 その子はわたくしを背にしてなんとか頑張っておりましたが多勢に無勢、とうとう手にしていた棒きれを奪い取られて、それでも飽き足らず執拗に叩かれて、とうとうわたくしの足元に倒れてしまったのでございます。

 それでもその子の性根が負けず嫌いなのか、いっこうに泣き声をあげませんからいじめるほうも余計意地になって叩くの繰り返しで・・・しかしとうとう我慢も限界がきたようで・・火が点いたように・・・可哀想とは申せただわたくしは立って眺めているだけで・・・子供達は勝ち誇ったように『泣き虫、弱虫』と囃し立てておりましたがしばらくして、その子がヒクヒクとしゃくりあげながらも泣き止みますと、リーダーらしい一番大柄のハナを垂らした男の子がとんでもないことを言い出したのでございます。(つづく)