朝ぼらけジジイの寝言つれづれに

夜中に目が覚めて、色々考えることがあります。それを文章にしてみました。

声に出して読む『ファーブル昆虫記』(幼年時代の思い出)ー6奥本大三郎訳

 ブナの林を何度も訪れているうちに、私は発見したきのこ類を三つの仲間に区別するようになった。

 第一番目の仲間は、これがいちばん数が多いのだが、傘の裏に放射状に襞がある。第二のものは、傘の裏が厚いクッションの裏打ちをしたようになり、目に見えるか見えないぐらいの小さな穴がたくさん開いている。そして第三のものは傘の裏側に猫の舌のような細かい柔らかな棘がいっぱいに生えているのである。記憶の助けにさまざまなきのこを整理しなければならないという必要性から、私は自分なりの分類法を考え出したのだ。

 ずっとあとになって、私はきのこに関する小さな本を何冊か、たまたま手に入れることになるのだが、それらの本で、三つの仲間に分ける私の分類法が昔からすでに知られているものであることを教えられた。しかも、それらの仲間にはラテン語の名称さえつけられているではないか。それでも私は先を越されて残念だなどとは少しも思わなかった。

 きのこに学名は、私は最初のラテン語の作文と翻訳の課題を与えてくれた気高いものであり、また司祭様がミサの祈りで唱えるこの古めかしい言葉によって栄誉を讃えられて、私にとっていやがうえにも尊いものとなった。こうした学問的な呼称にふさわしいものであるからには、きのこというものは必ずや、重要なものであるにちがいなかろう。

 

 ところが、それらの本はまた、ぽっぽっと煙を吹き出して私を大いに面白がらせたあのきのこのフランス名が出ていた。それは「狼のすかしっ屁」というのである。酷い名だなあ、と私は思った。これではいかにも下品ではないか。その横にそれより品のいいリコベルドンという学名が記されていた。ところが、品がいい、というのはうわべだけのことであった。というのは、その語源になっているギリシャ語がわかってみると、このリコベルドンとは、なんのことはない、ラテン語で「狼のすかしっ屁」という意味だったからである。

 植物にまつわる用語には翻訳がはばかれるようなものが山ほどある。現代ほど慎み深くなかった古代文化の遺産である植物学は、往々にして、慎ましさなんか、それこそ屁とも思わない、大胆で露骨な表現をそのままに保存しているのである。

 

 子供らしい好奇心で私がひとり、きのこの知識を心のなかに養っていたあの恵み多き時代からは、今やなんと遠く隔たってしまったことか! 「アア逃ゲ去ル年々ハ滑リ行ク」とホラティウスは言っている。まさにそのとおりである。歳月というものは、とりわけ、その終わりのころが近づくと、ますます遠く過ぎ去っていくのである。

 かつてそれはヤナギのあいだを縫って、傾きがあるかなきかのゆるやかな斜面を、ゆっくりと流れていく楽しい小さな流れであった。ところが今やそれは数多くの漂流物を押し流し、底知れぬ深き淵へと流れ落ちる急流なのだ。有効に使おうではないか。たとえそれが束の間のものにすぎないにしても。

 日暮れ時が迫ってくると、樵は、その日伐った最後の薪を束ねる。それと同様に、知識の森の貧しい樵であるこの私は、生涯の終わりを迎えて、私の薪束を整理しておこうと思う。

 虫の本能についての私の研究のなかでは、いったい何が後生に残ることであろうか。おそらくほんのわずかなものであろう。私としては全力を尽くしたつもりだったが、それはせいぜいのところ、これまで探求されていなかったひとつの世界に、いくつかのささやかな窓を切り開いたぐらいのものであろう。(つづく)